礼 拝 説 教 要 旨   2017. 9.24
「弟子への招き」
マタイ福音書  16章21〜28節
小 菅  剛  牧師
 これまで人を招くイエスの言葉の権威、罪人を招くイエスを見てきました。今日は、弟子を招くイエスを見ます。弟子とは、イエスを師と仰ぎ、イエスに従い学び続ける人を言います。「わたしはクリスチャンです」よりも「わたしはイエスの弟子です」と言いましょう。24節に、弟子の道の三つがあり、これはイエスの道でもあります
 1、自分を捨てる道は命を得る道です
(1) 自分の思いや考えを捨てる道:21〜23
人のことではなく神のことを思う道である。
(2) 自己保存することを捨てる道:25〜26
トルストイの小説、資産家葬儀、ザビエルとロヨラ
  ウエスレーは、全世界を手にして何が残るか?と
 2、自分の十字架を負う愛の道です
わたしたちは自分の罪のための十字架は負わない。イエスは、ご自分の罪のために十字架を負われたのではなく、わたしたちの罪の為です。これは愛の道です。愛すれば傷を受けます。神はその人、その人に合った十字架を背負わせられます。愛するために負うのです。インドの聖者サンダースキング。軽い十字架を求めた人の悲惨。
 3、イエスに従うときにイエスが共に歩まれます
 一人でこの道を行くのではありません。仲良しクラブで行くのでもありません。イエスの道を歩くとき、イエスは一緒に歩んでくださいます。イエスの臨在(意識できるイエスの存在、イエスとの親しい交わり)はイエスに従う人に与えられます。インマヌエルと言いながら自分の道を生きる人には、臨在はありません。
 4、必ず報いがあります:27,28
 再臨の時に報われる栄光の命が報いです。神の国に入れるのです。この道を歩むには、自分の力で歩めません