2019. 8.11
「三種類の人々」 
マタイによる福音書  27章15〜26節
中 島 啓 一 師
  1、十字架につけよと叫んだ群衆
 「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。この言葉を根拠にユダヤ人への迫害は行われてきました。しかし、そのような「自分の責任を他人に転嫁して、自分は正しいとする考え方」こそがイエス様を十字架につけたのです。自分のことを棚に上げてこの群衆のみに責任を負わせてはなりません。彼らの中に私もいた、ということを認めなくてはならないのです。
  2、力に負けた権力者ピラト
 ピラトは、イエス様に罪を見いだせなかったゆえに、赦そうと努めました。しかし群衆の圧力に屈してしまったのです。罪なき者を守るべき立場、守れる力を持つ者なのに、無責任にも己の職務を放棄しピラトは、私たちと無関係ではありません。イエス様の血について無関係を装うならば、あるいは信じたいと思っていても、世の力に屈するならピラトになってしまいます。
  3、ゆるされた罪人バラバ
 ラーゲルクヴィストの小説の中で、赦免されたバラバは、次第に、罪深い自分が赦され、罪のない方が処刑されたことに葛藤を覚えはじめます。イエス様が身代わりになったのはバラバだけのためだったのか。なぜ、罪のないお方が死なねばならなかったのか。バラバと同じように、私たちも自問するときに、十字架は本来誰がかかるべき場所であったかが見えてきます。
 結論  主を十字架にかけたのも、主の十字架によって命救われたのも、他ならぬ私たちです。私たちはこの十字架を、ピラトのように、自分とは関係ないと傍観していてはなりません。カルバリの十字架我がためなり、と告白し、十字架の血潮によって活かされている恵みを感謝しましょう。